チューリップの育て方etc.

スポンサードリンク

チューリップの文化

クルシウスの貢献

16世紀、ドイツのトルコ派遣大使で植物好きのブスベキウスはチューリップの球根や種をウィーンの有名な園芸家クルシウスに送りました。

クルシウスはいろいろな手づるで、チューリップの導入をはかりました。

後にオランダのライデン大学の植物学教授になってからは、地元の農家に栽培させました。

今日、オランダがチューリップの大産地になったのは、彼の果たした役割が大きかったと言われています。

新しい品種を次々に生み出したチューリップ狂時代

やがてチューリップはイギリスやフランスに渡り、上流階級の間での人気が異常に高まり、1634年から1637年にかけて、歴史にも残る有名なチューリップ狂時代が到来しました。その頃、チューリップの球根は高値で取り引きされていたと言われています。例えば、オランダではある新品種の球根が、馬車で小麦2台分、大麦4台分、雌牛4頭、豚3頭、羊12頭、葡萄酒2樽、ビール4樽、その他家具も含めて合計2,500フロリン分だったと言います。今のお金にすると何千万円と言われています。

そういうわけで、チューリップの球根は、一夜にして巨万の富を得る人もあれば、倒産や銀行の取り付けを受ける人などが続出して、ヨーロッパの経済は大混乱に陥りました。

そこで、オランダ政府は法令を出してこの投機売買を禁止したため、この熱狂的な人気も収まりましたが、その後約100年経った1732年頃、再び第二のチューリップ狂時代が到来します。

アレクサンドル・デューマの小説「黒いチューリップ」は、品種改良に熱中するコルネリウスというオランダの青年を中心にして描かれた物語ですが、当時のチューリップに対する熱狂ぶりがうかがえます。

一般大衆の花となっていったチューリップ

ブルジョアの花として出発したチューリップは、19世紀になってオランダの球根の生産が増すにつれて、一般大衆の花になってきました。

第二次世界大戦中のチューリップ

第二次世界大戦中、中立の立場を取ったオランダは、フランスやイギリスに進攻するドイツ軍の進路となったため、食糧を徴発され、チューリップの産地では自分達の食糧がなくなって、チューリップの球根を食べて飢えをしのいでいたと言われています。

第二次世界大戦後のチューリップ

戦後のチューリップは、それまでのチューリップに加えて中近東原産のチューリップと、それらとの間にできたすばらしい新品種が次々に発表されました。チューリップは交配した種をまいて、それが花をつけるまでに5〜6年、さらにその中から優良品種を選んで増殖するのに20年かかります。新品種が世に出るまで4分の1世紀かかるということです。

戦後に発表されたダーウィン・ハイブリッド系のチューリップは、今までのチューリップのイメージを破った画期的な品種だと言われていますが、それらの品種はオランダ人が戦時中、食料に困ってチューリップの球根を食べながら作り出したチューリップなのです。

日本でのチューリップ

チューリップが日本で栽培され始めたのは日露戦争の頃だと言われていますが、オランダにならって球根を生産しだしたのは大正8年に新潟県の信濃川流域の小合村においてであります。その後、栽培が増加し、現在では富山・新潟を中心にして、日本海沿岸の各県で生産されています。

©チューリップの育て方etc.

当サイトは、当サイトによって生じるいかなる損害に対して、一切責任を負いません。